朝の柔らかな陽射しが、神谷美紀の頬を優しく撫でた。窓から差し込む光が部屋を明るく照らし、彼女はゆっくりと目を開けた。昨夜は久しぶりに深い眠りにつくことができた。心の奥にあった重荷が、少し軽くなった気がしていた。
ベッドから起き上がり、リビングへ向かう途中、アトリエのドアが目に入った。以前なら、そこに入ることが怖かった。未完成のキャンバスが彼女を責めるように感じられたからだ。しかし、今日は違っていた。
美紀は静かにドアを開け、アトリエに足を踏み入れた。窓からの光がキャンバスを照らし、その白さが新たな始まりを告げているようだった。彼女は深呼吸をし、心を落ち着かせた。
(今日は、自分のために描いてみよう)
彼女は決心した。完璧を求めるのではなく、自分の感じたままを表現すること。それが今の自分に必要なことだと、彩音との対話を通じて気づいたのだ。
美紀はパレットに絵具を乗せ、筆を手に取った。最初の一筆を描くとき、心の中にあった不安が少しずつ解けていくのを感じた。色彩がキャンバスの上で踊り出し、彼女の内面を映し出していく。
時間が経つのも忘れ、彼女は夢中で描き続けた。窓の外では鳥のさえずりが聞こえ、風が木々を揺らす音が静かに響いていた。美紀はその自然の音に耳を傾けながら、筆を走らせた。
(これが、本来の自分なんだ)
彼女は微笑んだ。完璧を追い求め、自分を追い詰めていた日々が嘘のように思えた。描くことの喜びが、再び心に満ちていく。
昼過ぎになり、美紀は一息つくために筆を置いた。キャンバスには、これまでにない自由なタッチで描かれた作品が姿を現していた。色とりどりの線や形が調和し、彼女の感情をそのまま表現している。
(これでいいんだ。私は私のままで)
美紀はそう思いながら、アトリエのソファに腰を下ろした。心地よい疲労感が全身を包み、満足感が広がっていく。
そのとき、スマートフォンが振動した。画面を見ると、彩音からのメッセージが届いていた。
「美紀、今日の午後時間ある?一緒にカフェでお茶しない?」
美紀はすぐに返信した。
「もちろん!ぜひ会いたいな」
約束の時間に、二人は街角の小さなカフェで再会した。テーブルには温かい紅茶とスコーンが並び、窓からは穏やかな日差しが差し込んでいる。
「元気そうだね、美紀」
彩音が微笑むと、美紀も笑顔で答えた。
「うん、おかげさまで。実は、今日久しぶりに描いたの。自分のためにね」
「本当?どんな作品になったの?」
彩音の目が輝いた。
「まだ未完成だけど、今までとは全然違う感じかな。完璧じゃなくても、自分の感じたままを表現できた気がする」
「それは素敵だね。私も最近、自分のペースで描くことの大切さを感じてるんだ」
二人はお互いの近況を語り合い、笑い合った。かつてのような親密さが戻ってきたことに、美紀は心からの喜びを感じていた。
夕方、カフェを出ると柔らかな風が二人を包んだ。美紀は心の中に灯った小さな光を感じていた。
「今日は本当にありがとう。なんだか心が軽くなったよ」
「私もだよ。これからは何でも話そうね」
「もちろん!」
別れ際、二人は再び笑い合った。
帰宅した美紀は、再びアトリエに足を運んだ。キャンバスに向かい合い、続きを描き始める。時間を気にせず、完璧を求めず、ただ自分の内側から湧き上がるものを形にしていく。
夜が更ける頃、作品はひとつの形を成していた。彼女は筆を置き、一歩下がって全体を見渡した。
(これが、私の描きたかったもの)
作品には、彼女の喜びや悲しみ、葛藤や希望がすべて込められていた。不完全であっても、それが彼女自身を表している。
美紀は深く息を吸い込み、穏やかな気持ちで微笑んだ。
(これからは、自分を大切にしながら進んでいこう)
彼女はそう心に誓った。
数日後、美術大学の廊下で美紀は教授に呼び止められた。
「神谷さん、最近の作品を拝見したよ。とても生き生きとしていて、君の新しい一面を感じた」
美紀は驚きつつも、嬉しさが込み上げてきた。
「ありがとうございます。今回は、自分の感じたままを描いてみました」
「その姿勢はとても大切だ。これからも自分のペースで頑張ってほしい」
「はい、ありがとうございます!」
教授が去った後、美紀は喜びに満たされた。自分を追い詰めるのではなく、解放することで得られる達成感。それを初めて実感したのだった。
夜、自宅に戻った美紀は母親の玲子に話しかけた。
「お母さん、今日ね、教授に作品を褒められたよ」
玲子は驚いたように振り向いた。
「そうなの?それは良かったわね。どんな作品なの?」
「自分の感じたことをそのまま描いてみたの。完璧じゃないかもしれないけど、私らしい作品になったと思う」
玲子は少し考え込んだ後、柔らかな表情で言った。
「美紀がそう感じるなら、それが一番大切なことね。これからも自分を信じて進んでいってちょうだい」
「うん、ありがとう、お母さん」
母親の言葉に、美紀は胸のつかえが取れたような気がした。ずっと自分を縛っていたのは、他でもない自分自身だったのだ。
ベッドに入った美紀は、明日への希望に胸を膨らませた。
「これからは、自分のために描いていこう」
彼女はそう心に誓い、穏やかな眠りについた。