神谷美紀は、アトリエの片隅で一人、未完成のキャンバスを見つめていた。完璧を追い求めるあまり、作品はいつも途中で止まってしまう。締め切りは迫り、時間は足りない。それでも筆を進めることができない自分に苛立ちを感じていた。
(どうして私はこんなにも不完全なんだろう……)
ため息をつきながら、美紀は疲れ切った身体を椅子に沈めた。そのとき、スマートフォンが震え、画面に「彩音」の名前が表示された。彼女とは最近、まともに話していない。心のどこかで避けていた自分に気づき、胸が痛んだ。
勇気を振り絞って電話に出ると、彩音の少し緊張した声が耳に届いた。
「美紀、久しぶり。元気にしてた?」
「彩音……うん、まあ。でもちょっと忙しくてね」
「そうなんだ。実は、話したいことがあって。時間あるかな?」
美紀は一瞬ためらったが、このままでは何も変わらないと思い、頷いた。
「うん、大丈夫。どこで会おうか?」
「クィル・アンカでどうかな?」
「あの画材店のカフェね。わかった、じゃあ後で」
電話を切った後、美紀は心臓の鼓動が早くなるのを感じた。彩音と向き合うことへの不安と、彼女に会いたいという思いが交錯していた。
クィル・アンカのカフェは、穏やかな音楽と絵具の香りに包まれていた。美紀が店内に入ると、彩音が窓際の席で手を振っていた。彼女の表情もどこか硬く、緊張しているように見えた。
「来てくれてありがとう」
「こちらこそ、誘ってくれてありがとう」
二人は注文を済ませると、しばらくの間、互いに言葉を探すように沈黙が続いた。やがて、彩音が意を決したように口を開いた。
「美紀、最近あまり話せてなかったけど、どうしてる?」
美紀は視線をカップに落とし、答えた。
「うん、ちょっと作品作りがうまくいかなくて。時間が足りなくて焦ってるの」
「そうなんだ……私も似たような感じかも」
彩音の言葉に、美紀は意外な気持ちで顔を上げた。
「彩音も?」
「うん。実は、展示会の後からずっと描けなくなってて。美紀が頑張ってるのを見ると、自分が情けなく思えて、つい避けてしまってた」
「避けてたって……私の方こそ、彩音に合わせる顔がなくて」
美紀は胸の奥が熱くなるのを感じた。お互いに同じような気持ちを抱えていたのだ。
「美紀、私、本当はずっとあなたに話したかった。でも、自分の弱さを見せるのが怖くて……」
彩音の目には涙が浮かんでいた。
「私も同じだよ。完璧を求めるあまり、自分を追い詰めてた。彩音に弱いところを見せたくなくて、無理してたんだ」
美紀の声も震えていた。
「美紀……」
彩音はそっと手を伸ばし、美紀の手に触れた。
「もう、お互いに無理するのはやめよう? 私たち、親友なんだから」
美紀はその言葉に救われる思いだった。ずっと抱えていた孤独や不安が、少しずつ溶けていく。
「うん、ありがとう。彩音とこうして話せて、本当に良かった」
その後、二人はゆっくりと自分たちの思いを語り合った。
「私、完璧じゃないと認めてもらえないって思い込んでた。でも、それが自分を苦しめてたんだね」
美紀がつぶやくと、彩音は深く頷いた。
「私も同じ。誰かと比べて自分を責めるんじゃなくて、自分のペースで進めばいいんだって、最近ようやく気づいたの」
「そうだね。お互いに助け合いながら、少しずつ前に進もう?」
「うん、一緒に頑張ろう!」
二人は笑顔を交わし、新たな一歩を踏み出す決意を固めた。
夕方、店を出ると柔らかな風が二人を包んだ。美紀は心の中に灯った小さな光を感じていた。
「今日は本当にありがとう。なんだか心が軽くなったよ」
「私もだよ。これからは何でも話そうね」
「もちろん!」
別れ際、二人は再び笑い合った。
帰宅した美紀は、アトリエに向かい、キャンバスの前に立った。完璧を求めるのではなく、自分の感じたままを描いてみよう。そう思うと、筆が自然と動き始めた。
(これでいいんだ。私は私のペースで)
美紀は初めて、心から描く喜びを感じていた。彩音との対話が、彼女にとって大きな転機となったのだ。
その夜、美紀は穏やかな気持ちで眠りについた。明日からは新しい自分で歩んでいける。そう信じて。