タイトル

第4章: 「限界を感じる瞬間」

神谷美紀は、深夜のアトリエに一人取り残されていた。窓の外には星一つ見えない暗闇が広がり、静寂が彼女を包み込む。キャンバスに向かって座る彼女の手は、疲れ切って震えていた。

深夜のアトリエで座る美紀

目の前の作品は、まだ完成には程遠い。締め切りまで残された時間はわずかだというのに、思うように筆が進まない。美紀は焦りと不安に苛まれ、何度も深呼吸を試みたが、胸の奥の重苦しさは消えなかった。

「どうして……どうして描けないの……」

彼女は自分に問いかける。しかし、返ってくる答えは虚無感だけだった。完璧を求めるあまり、細部にこだわりすぎて全体を見失っている自分に気づいてはいたが、それでも手を止めることができなかった。

頭の中では母親の玲子の声が響く。

「美紀、妥協は許されないわ。完璧な作品を仕上げなさい」

その言葉が、鎖のように彼女の心を締め付ける。美紀は歯を食いしばり、再び筆を握り直した。しかし、手は思うように動かず、キャンバスに乗せた色は彼女の望むものではなかった。

思うように描けない美紀

「もうやめてしまいたい……」

小さな声で呟いたその言葉に、自分自身が驚いた。絵を描くことが好きだったはずなのに、今では苦痛でしかない。涙が頬を伝い、彼女はキャンバスに顔を伏せた。

キャンバスに顔を伏せる美紀

そのとき、静かにドアが開く音がした。振り向くと、親友の神埼彩音が心配そうな表情で立っていた。

「美紀、まだここにいたの?もう深夜だよ」

彩音の優しい声に、美紀の心の堰が切れた。

「彩音……私、もうダメかもしれない」

涙が溢れ出し、彼女は声を詰まらせながら続けた。

「全然描けないの。時間もないのに、何をやっても上手くいかなくて……」

彩音はそっと美紀に近づき、その肩に手を置いた。

「美紀、そんなに自分を追い詰めないで。完璧じゃなくてもいいんだよ」

美紀を慰める彩音

「でも、私は……完璧じゃなきゃ価値がないの。母にも認めてもらえないし、自分自身も許せない」

彩音は深く息をつき、美紀の目をまっすぐに見つめた。

「美紀、あなたはあなたのままで十分価値があるよ。誰かの期待のためじゃなく、自分のために描いてみたらどうかな?」

美紀はその言葉にハッとした。自分が何のために描いているのか、忘れていたことに気づいた。

「自分のために……?」

「そう。絵を描くことが好きだから始めたんじゃないの?その気持ちを思い出して」

美紀は静かに目を閉じ、初めて絵を描いた日のことを思い出した。無邪気にクレヨンを走らせ、色とりどりの世界を創り上げたあの日。そこには評価や期待などなく、ただ純粋な喜びだけがあった。

幼い頃の美紀が絵を描く姿

「でも、どうすればいいのか分からない……」

彼女の声は震えていた。彩音は優しく微笑み、彼女の手を握った。

「一緒に外の空気を吸いに行かない?リフレッシュすれば、きっと気持ちも変わるよ」

美紀は少し迷ったが、頷いた。

「……うん、そうだね」

二人はアトリエを出て、夜風が心地よい中庭へと向かった。星明かりの下、静かな時間が流れる。

夜の中庭を歩く美紀と彩音

「美紀、私も実は悩んでいたんだ」

彩音が口を開いた。

「え?彩音も?」

「うん。自分の作品に自信が持てなくて。でも、完璧じゃなくても、自分が感じたことをそのまま表現すればいいんだって思うようになったの」

美紀は驚きと共感を覚えた。自分だけが苦しんでいると思っていたが、彩音も同じような悩みを抱えていたのだ。

「彩音……私、ずっと一人で頑張らなきゃって思ってた。でも、誰かに頼ってもいいのかもしれないね」

「もちろんだよ。私たちは友達なんだから、お互いに支え合おう」

美紀は彩音の言葉に胸が温かくなるのを感じた。

「ありがとう、彩音。本当にありがとう」

「こちらこそ、話してくれて嬉しいよ」

その夜、美紀は久しぶりに穏やかな気持ちで眠りにつくことができた。


翌朝、美紀は早めにアトリエに向かった。朝日の差し込む中、彼女はキャンバスの前に立つ。

「今日は、自分のために描いてみよう」

深呼吸をし、彼女は筆を手に取った。思うままに色を乗せ、形を描いていく。完璧さを求めるのではなく、自分の感じたことをそのまま表現する。その過程で、彼女はかつての描く喜びを取り戻していった。

楽しそうに絵を描く美紀

昼頃、彩音がアトリエに入ってきた。

「美紀、調子はどう?」

「うん、今日はいい感じ。見てみて」

彼女は笑顔でキャンバスを見せた。彩音はそれを見て、目を輝かせた。

「すごく素敵だよ!美紀の新しい一面が見える気がする」

「本当?ありがとう」

二人は微笑み合い、再びそれぞれの制作に戻った。


その日の夕方、教授がアトリエを訪れた。

「神谷さん、少しいいかね?」

美紀は緊張しながらも、作品の前に立った。

「はい、何でしょうか」

教授は彼女のキャンバスをじっと見つめ、静かに言った。

「これは素晴らしい作品だ。これまでの君の作品とは違う力強さを感じる。何か心境の変化でもあったのかい?」

美紀は少し照れながら答えた。

「はい、自分の感じたままを表現してみました」

「それは素晴らしいことだ。これからもその調子で頑張りなさい」

「ありがとうございます!」

教授が去った後、美紀は喜びに満たされた。自分を追い詰めるのではなく、解放することで得られる達成感。それを初めて実感したのだった。

教授と話す美紀

夜、自宅に戻った美紀は母親の玲子に話しかけた。

「お母さん、今日ね、教授に作品を褒められたの」

玲子は驚いたように振り向いた。

「そうなの?それは良かったわね。どんな作品なの?」

「自分の感じたことをそのまま描いてみたの。完璧じゃないかもしれないけど、私らしい作品になったと思う」

玲子は少し考え込んだ後、柔らかな表情で言った。

「美紀がそう感じるなら、それが一番大切なことね。これからも自分を信じて進んでいってちょうだい」

「うん、ありがとう、お母さん」

母親の言葉に、美紀は胸のつかえが取れたような気がした。ずっと自分を縛っていたのは、他でもない自分自身だったのだ。

母親と話す美紀

ベッドに入った美紀は、明日への希望に胸を膨らませた。

「これからは、自分のために描いていこう」

彼女はそう心に誓い、穏やかな眠りについた。