佐藤美紀は、キャンパスのベンチに座り込み、スケッチブックを膝の上に置いていた。秋の風が木々の葉を揺らし、落ち葉が彼女の足元に舞い降りる。しかし、その美しい光景も彼女の心を晴らすことはできなかった。
最近、親友の神埼彩音との間に微妙な距離を感じていた。入学当初から何でも話し合える仲だった二人。しかし、美紀が完璧主義に陥り、作品制作に追われる日々が続くにつれ、彩音との会話も少なくなっていった。
ある日、美紀はアトリエでキャンバスに向かっていた。締め切りが迫る中、細部にこだわるあまり、作品はなかなか進まない。焦りと不安が彼女の胸を締め付ける。
そのとき、彩音が静かに近づいてきた。
「美紀、ちょっと休憩しない?お昼ご飯、一緒に食べようよ」
彩音の声は優しかったが、美紀は苛立ちを隠せなかった。
「ごめん、今それどころじゃないの。時間がないから」
彩音は少し戸惑った表情を見せたが、微笑みを崩さない。
「そう…無理しないでね。また後で話そう」
彩音が去った後、美紀は自分の冷たい態度に胸が痛んだ。しかし、完璧な作品を仕上げなければというプレッシャーが、それ以上の感情を押し殺してしまう。
翌日、キャンパスの廊下で彩音とすれ違った。彩音は笑顔で手を振ったが、美紀は気づかないふりをして足早に通り過ぎた。心の中では罪悪感が募るが、どうしても素直になれない自分がいた。
(彩音はきっと、私のことを理解してくれない)
そう思い込むことで、自分を正当化しようとしていた。
その日の夕方、美紀はアトリエで一人残っていた。窓の外はすでに暗く、静寂が辺りを包んでいる。彼女は筆を握りしめ、キャンバスに向かったが、手が動かない。
「どうして…どうして描けないの…」
声にならない声が漏れた。そのとき、ドアがそっと開き、彩音が顔を覗かせた。
「美紀、まだいたの?もう遅いから一緒に帰ろう」
美紀は驚いたように振り向いたが、すぐに視線をそらした。
「先に帰って。私はまだやることがあるから」
彩音は心配そうに彼女を見つめた。
「最近、何かあったの?ずっと様子が変だよ」
「別に何もない。放っておいて」
思わず強い口調になってしまった。彩音は悲しげな表情を浮かべた。
「そう…でも、何かあったら言ってね。私は美紀の力になりたいから」
「余計なお世話だって言ってるでしょ!」
その言葉に、彩音は一瞬言葉を失った。静かな沈黙が二人の間に流れる。
「わかった。ごめんね、邪魔して」
彩音は小さく頭を下げて、静かにアトリエを出て行った。
美紀はその背中を見送りながら、胸の奥にチクリと痛みを感じた。しかし、素直に謝ることができない自分に苛立ちを覚える。
(私は何をしているんだろう…)
翌日から、彩音は美紀に話しかけることを控えるようになった。教室でも、以前のような笑顔は見せず、必要最低限の会話しか交わさない。美紀はそれを感じつつも、自分から歩み寄ることができなかった。
ある日の昼休み、美紀は一人で中庭のベンチに座っていた。遠くで彩音が他のクラスメイトと楽しそうに話しているのが見える。その笑顔が、なぜか自分には届かない。
(彩音はもう、私なんかいなくても平気なんだ)
孤独感が彼女を包み込み、胸が締め付けられる。しかし、自分から関係を壊してしまった手前、どうすることもできなかった。
その夜、家に帰った美紀は、母親の玲子に声をかけられた。
「美紀、最近元気がないわね。何かあったの?」
「別に…何もないよ」
「そう?でも、無理はしないでね。あなたのことを心配しているのよ」
母親の優しさに触れ、美紀は思わず涙がこぼれそうになった。しかし、ここでも素直になれない自分がいた。
「大丈夫だから。おやすみなさい」
部屋に戻り、ベッドに横たわった美紀は天井を見つめながら考えた。
(私は、なぜこんなにも一人ぼっちなんだろう)
彩音とのすれ違い、作品が進まない焦り、母親への思い。すべてが重なり合い、彼女の心を押しつぶしていた。
翌日、意を決して美紀は彩音に話しかけることにした。休み時間、彩音が一人でいるところを見計らって近づく。
「彩音、少し話せる?」
彩音は驚いた表情を見せたが、静かに頷いた。
「うん、いいよ」
二人は校舎裏の静かな場所へと向かった。しばらくの沈黙の後、美紀が口を開く。
「この前はごめん。あんな言い方して…本当にごめんなさい」
彩音は優しい目で美紀を見つめた。
「ううん、私も無神経だったかもしれない。美紀が大変なのに、気づいてあげられなくて」
「実は…ずっとプレッシャーで押しつぶされそうで。完璧じゃなきゃいけないって思って、自分を追い詰めてた」
美紀の目から涙がこぼれ落ちた。彩音はそっと彼女の手を握った。
「美紀、私たちは友達だよ。辛いときは頼ってほしい。完璧じゃなくても、美紀は美紀だよ」
その言葉に、美紀の心の中で何かが解き放たれるのを感じた。
「ありがとう、彩音。ずっと言えなくて、ごめんね」
二人はしばらくの間、手を握り合ったまま静かに涙を流した。
この日を境に、美紀と彩音の関係は少しずつ修復されていった。お互いの悩みを共有し、支え合うことで、二人は新たな一歩を踏み出すことができた。
美紀は完璧を求めるのではなく、自分のペースで進むことの大切さを学び始めていた。そして、彩音との友情が何よりも自分にとって大切なものだと気づいたのだった。