神谷美紀は、美術大学の広いキャンパスを急ぎ足で歩いていた。朝の冷たい空気が頬を刺すが、それを感じる余裕もない。腕時計に目をやると、授業開始まで残りわずか。彼女は心の中で焦りを募らせた。
「遅れちゃう……」
アトリエに駆け込むと、既にクラスメイトたちは制作に取りかかっていた。教授の厳しい視線が一瞬彼女を捉えたが、美紀は何とか席に滑り込んだ。息を整えながら、キャンバスに向かう。
今日の課題は、次の展示会に向けた作品の制作だった。美紀は鉛筆を握りしめ、白いキャンバスを見つめる。しかし、頭の中は真っ白だった。アイデアはあるのに、形にできない。手が震え、線が思うように引けない。
「どうして……」
彼女は自分に苛立ちを覚えた。完璧を求めるあまり、最初の一筆が重くのしかかる。時間だけが無情に過ぎていく。
昼休み、彩音が近づいてきた。
「美紀、お昼一緒に食べない?」
彩音の明るい笑顔に、美紀は一瞬救われる思いがした。しかし、彼女は視線をそらし、答えた。
「ごめん、まだやることがあって……また今度ね」
彩音は少し寂しそうな表情を浮かべたが、無理に微笑んで言った。
「わかった。無理しないでね」
美紀は彼女を見送ると、再びキャンバスに向かった。だが、焦りは増すばかりで、思うように進まない。
放課後、他の学生たちが帰り支度を始める中、美紀は一人アトリエに残った。窓の外はすでに薄暗くなり、街の灯りが点り始めている。彼女は溜息をつき、スケッチブックを開いた。
「時間が足りない……でも、妥協なんてできない」
彼女の頭の中では、母親の声が響いていた。
「美紀、何事も完璧を目指しなさい。中途半端は許されないわ」
その言葉が彼女を追い立てる。目の前の時計は夜の9時を指していたが、彼女は筆を止めることができなかった。
疲労が限界に達した頃、ふと背後から声がした。
「美紀、まだやってたの?」
振り向くと、教授が心配そうな顔で立っていた。
「はい、もう少しで仕上がるので」
「でも、無理は禁物だよ。良い作品を作るには、心と体の健康が大切だ」
美紀は無理に笑顔を作った。
「大丈夫です。ありがとうございます」
教授は彼女の肩に手を置き、優しく言った。
「明日もあるんだから、今日はもう帰りなさい」
その言葉に、美紀は初めて自分がどれだけ疲れているかに気づいた。肩は重く、目は霞んでいる。
「……わかりました」
アトリエを出ると、冷たい夜風が彼女を包んだ。空を見上げると、星が静かに輝いている。
家に帰る道すがら、美紀は自分の心の中を見つめた。
(私は何のためにこんなに焦っているのだろう)
完璧を求めるあまり、大切なものを見失っているのではないか。彩音との距離も、最近は感じるようになっていた。
部屋に戻ると、美紀はベッドに倒れ込んだ。天井を見つめながら、彼女は自分に問いかけた。
「私は、本当に絵を描くことが好きなんだよね?」
答えは出なかった。ただ、明日も早く起きて制作に取りかからなければという思いが彼女を締め付ける。
翌朝、目覚まし時計の音で目を覚ますと、体が鉛のように重かった。それでも彼女はベッドから起き上がり、大学へと向かった。
アトリエに入ると、彩音が先に来ていた。
「おはよう、美紀」
「おはよう」
短い挨拶を交わし、二人はそれぞれのキャンバスに向かう。彩音はリズミカルに筆を動かし、楽しそうに色を重ねている。それを横目に見ながら、美紀は自分の手が止まっていることに気づいた。
(どうして私は、こうも動けないのだろう)
時間は過ぎていく。焦れば焦るほど、作品は遠ざかっていくように感じられた。
昼過ぎ、彩音が再び声をかけてきた。
「美紀、少し休憩しない?外の空気を吸った方がリフレッシュできるかも」
美紀は一瞬迷ったが、結局首を横に振った。
「ごめん、やっぱり今は手を止めたくないの」
彩音は心配そうに彼女を見つめた。
「無理しないでね。本当に何かあったら言って」
「ありがとう。でも大丈夫だから」
彩音が去った後、美紀は自分の中に溜まったものが溢れ出しそうになるのを感じた。
(何が大丈夫なんだろう)
彼女は筆を握りしめ、キャンバスに向かった。しかし、描くたびに違和感が増していく。
夕方、ついに美紀の手は止まった。彼女はキャンバスを見つめ、涙が頬を伝った。
「もう、限界かもしれない……」
時間に追われ、完璧を求めるあまり、自分を見失っていた。大好きだったはずの絵を描くことが、今では苦痛になっている。
その時、ポケットの中でスマートフォンが振動した。画面には母親からのメッセージが表示されている。
「最近どう?新しい作品、楽しみにしているわ」
美紀はその言葉を見つめ、深い溜息をついた。
(私は一体、誰のために描いているのだろう)
彼女はスマートフォンを握りしめ、返事を打つことができなかった。
夜のアトリエには、静寂だけが残った。美紀は自分の心の声に耳を傾ける。
「本当に大切なものは何?」
答えを見つけるために、彼女はゆっくりと目を閉じた。