佐藤美紀が初めて絵筆を握ったのは、まだ幼稚園に通っていた頃だった。小さな手で握ったクレヨンは、紙の上で自由に踊り、鮮やかな色彩が無邪気な笑顔とともに広がっていく。母親の玲子は、その姿を微笑ましく見つめていた。
「美紀、すごく上手ね。将来は有名な画家になれるかもしれないわね」
母のその一言が、美紀の胸に小さな火を灯した。母に褒められることが何よりも嬉しく、彼女はますます絵を描くことに夢中になっていった。
しかし、小学校に上がると、玲子の態度は少しずつ変わっていった。美紀が描いた絵を見るたびに、細かい指摘が増えていく。
「ここ、色がはみ出しているわ。もっと丁寧に塗らないと。線ももう少し真っ直ぐに引けるように練習しましょう」
美紀は母の言葉を真剣に受け止め、一生懸命に練習を重ねた。母に認められたい一心で、学校から帰るとすぐにスケッチブックを開き、夜遅くまで絵に向き合った。
時間が経つにつれ、玲子の期待はますます高まっていった。美紀が地域の絵画コンクールで入賞したとき、玲子は誰よりも喜んだ。
「やっぱり美紀は才能があるのね。この調子で頑張りましょう」
その言葉に、美紀の心は誇らしさとともに重圧を感じ始めていた。もっと母を喜ばせたい、もっと完璧な絵を描かなければ――そう思うようになっていった。
中学生になると、美紀は美術部に所属し、ますます絵に打ち込むようになった。しかし、その一方で彼女の中にある不安も大きくなっていった。作品を仕上げるたびに、「これで本当に良いのか」と自問自答を繰り返すようになったのだ。
ある日、美紀は新しい作品を母に見せた。自分なりに工夫を凝らし、時間をかけて仕上げた自信作だった。しかし、玲子の反応は思わしくなかった。
「うーん、悪くはないけれど、ここもう少し色のグラデーションを工夫できたんじゃないかしら。それに、この部分の構図が少し甘いわね」
美紀の胸にチクリと痛みが走った。自分では満足していた作品が、母の目にはまだ足りないものとして映っている。
「ごめんなさい、次はもっと頑張るね」
「そうね、期待しているわ」
玲子のその言葉が、美紀の心に重くのしかかった。完璧でなければ認めてもらえない――その思いが彼女をますます追い詰めていった。
高校生になると、美紀は美術大学への進学を目指し、日々の練習に明け暮れた。友人たちと過ごす時間も減り、彼女の生活は絵を描くことだけに集中していった。しかし、作品を仕上げるたびに感じるのは達成感ではなく、不安と自己嫌悪だった。
「まだダメだ。もっと完璧にしなきゃ」
彼女は何度も何度も描き直し、夜遅くまでアトリエに籠る日々が続いた。その姿を見た友人の彩音が心配そうに声をかけた。
「美紀、大丈夫?最近無理してない?」
「ううん、大丈夫。ちょっと頑張らなきゃいけない時期だから」
美紀は笑顔で答えたが、その瞳には疲労の色が濃く滲んでいた。
ある夜、疲れ果てた美紀は自分の部屋で一人、スケッチブックを開いたまま動けなくなっていた。頭の中では描きたいイメージが溢れているのに、手が動かない。心の中で何かが壊れていくような感覚に襲われた。
「私は、どうして描けないんだろう……」
その時、部屋のドアが静かに開き、玲子が入ってきた。
「美紀、まだ起きていたの?明日も早いんだから、もう寝なさい」
「でも、まだ仕上げてないの」
「そんな状態で良い作品が描けるわけないでしょう。効率よく時間を使うことも大切よ」
玲子の言葉に、美紀は何も言い返せなかった。母の期待に応えられない自分が情けなくて、涙がこぼれそうになるのを必死で堪えた。
「わかった。おやすみなさい」
玲子が部屋を出て行った後、美紀は静かに涙を流した。自分が何のために描いているのか、分からなくなっていた。
「私、本当に絵が好きなのかな……」
幼少期から母の期待に応えることが彼女の原動力だった。しかし、その期待はいつしか重圧となり、美紀の心を締め付けていた。完璧でなければ価値がない――そんな思い込みが彼女を苦しめていたのだ。
美紀の幼少期からの経験は、彼女の完璧主義を形成し、時間に追われる日々を生み出していた。母親の玲子の影響は、彼女の人生に深く刻まれ、これからの彼女の選択と葛藤に大きな影響を与えていくことになる。