彩音が美紀との対話を経て、心の中に光が戻り始めてから数週間が過ぎた。自分のペースで描くことを大切にしながら、少しずつ新しい作品を仕上げる日々が続いていた。彼女の心は以前のようにプレッシャーに押しつぶされることはなくなり、絵を描く楽しさを再び感じられるようになっていた。
しかし、そんなある日、大学の教授から突然の知らせが舞い込んできた。
「結城 薫さんがまたこちらで審査をすることになったんだ。今度の展示会では、彼が特別審査員として参加してくれる。」彩音はその言葉を聞いて、胸の奥で何かがざわめくのを感じた。あの日、結城薫に酷評された記憶が、まるで昨日のことのように蘇った。あの冷たい言葉、心を打ち砕かれた瞬間――彩音は思わず手が止まった。
(また、彼に評価されるのか……)彼女はスケッチブックを見つめながら、かつての自分がどれほど彼の言葉に振り回され、傷つけられたかを思い出した。だが同時に、瑞輝や美紀との出会いや対話を通して、自分がどれだけ成長したかも思い返した。
(今の私は、あの時の私とは違う……)心の中でそう言い聞かせるものの、不安は拭いきれなかった。結城薫と再び向き合うことが、彼女にとってどれだけ大きな試練であるかを、彩音はよく理解していた。それでも、彼女は逃げたくないと思っていた。
展示会当日。会場は前回と同じように、多くの学生たちの作品で賑わっていた。緊張感が漂う中、彩音は自分の作品の前に立っていた。今回は、自分の感性を大切にしながら、自由に描き上げた作品だった。彼女は、何を描くべきか悩んだ末に、最終的には自分の内面を素直に表現することを選んだ。
(これが、今の私だ。)彼女は深呼吸をして、来場者が作品を見つめる中、そっと作品に視線を向けた。以前のように自分の作品が「評価されるべきもの」として重くのしかかることはなかった。今回は、自分自身を信じていた。
やがて、結城 薫が彼女の作品の前に現れた。彼の表情は相変わらず冷静で、何を考えているのか全く読めない。結城は、じっと作品を見つめたまま、しばらく無言だった。
彩音の心臓が早くなる。だが、前回のように絶望的な気持ちは湧いてこない。ただ、自分の作品をどう受け取るのかを静かに待っていた。
そして、結城が静かに口を開いた。
「……前回とは違うな。」彼の言葉に、彩音は軽く息を飲んだ。冷たい言葉が再び投げかけられるのかと思ったが、続く言葉は予想外のものだった。
「この作品には、確かに感性が感じられる。以前の君の作品は技術的に優れていても、魂が見えなかった。だが、今回は君自身が作品に込められている。」彩音は驚きながらも、その言葉を静かに受け止めた。結城 薫は彼女の作品をじっくりと見つめ、再び短く評価を口にした。
「これなら、評価に値する。」それは、彼なりの褒め言葉だった。彩音はその言葉を聞いて、少しだけ笑みを浮かべた。かつての自分なら、彼の評価に感情を大きく揺さぶられていただろう。しかし、今の彩音は違った。結城の言葉がどうであれ、彼女は自分が成長し、前に進んだことを感じていた。
結城はそのまま、別の作品へと移動していった。彩音は、彼の背中を見送りながら、心の中で何かが静かに解放されていくのを感じた。
展示会が終わり、彩音は久しぶりに穏やかな気持ちで会場を後にした。結城 薫との再会は、彼女にとって避けられない試練だったが、その試練を乗り越えたことで、彼女はさらなる自信を手に入れていた。
外に出ると、瑞輝が静かに待っていた。彼は彩音を見つけると、にっこりと微笑んだ。
「どうだった?」彩音は瑞輝の顔を見て、ふと笑みを浮かべた。
「うん、大丈夫。ちゃんと向き合えたよ。」その言葉に、瑞輝は少し安心したように頷いた。
「それは良かった。君が頑張ってるの、ずっと見てたからね。」瑞輝の優しい言葉に、彩音は心が温まるのを感じた。彼の存在が、彼女の大きな支えとなっていたことを改めて実感した。
「ありがとう、瑞輝さん。あなたのおかげで、私……自分を信じることができた。」そう言うと、瑞輝は照れたように笑い、
「それは君自身の力だよ」と優しく返した。