神埼彩音は、クィル・アンカでスケッチブックに向き合うようになってから、自分の心が少しずつ軽くなっていくのを感じていた。焦らず、自分のペースで絵を描き始めたことが、彼女にとって大きな一歩だった。しかし、もう一つ彩音の心に重くのしかかっていたのは、親友の美紀との関係だった。
彩音は美紀を避けていた理由を、ようやく自覚することができていた。自分が彼女の成功を羨んでいたこと、自分が弱いと認めるのが怖かったこと。そして、何より彼女に自分の本当の気持ちを伝えることができなかったことが、二人の間に溝を作ってしまったのだ。
(今度こそ、美紀とちゃんと話そう。)彩音は心の中で決意した。
ある日、彩音は美紀に連絡を取り、久しぶりに二人で会う約束をした。場所は、以前二人でよく通った美術館だった。美術大学に入学したばかりの頃、二人はよく一緒にこの美術館を巡り、作品を見て語り合った思い出の場所だ。だが、展示会での出来事以来、二人で訪れるのは初めてだった。
美術館の前に立つと、彩音は少し緊張した。久しぶりに美紀と正面から向き合うことに不安があったが、それ以上に、今度こそ自分の気持ちを正直に伝えたいという思いが強かった。
美術館の中は、静かな空気が漂っていた。大きな絵画が並び、キャンバスに描かれた色彩が静かに彼女たちを包み込んでいる。彩音は美術館の奥に進みながら、遠くから美紀の姿を見つけた。彼女は以前と変わらず、明るい笑顔を浮かべていた。
「彩音!こっちだよ!」美紀は手を振り、彩音を迎えた。その姿を見た瞬間、彩音の胸が少し痛んだ。以前のように、自然に笑顔で彼女に応えることができない自分に気づいたからだ。
「久しぶりだね。元気にしてた?」彩音は少し硬い笑顔で答えた。
「うん、まあ……少しずつね。」二人は美術館の中を歩きながら、しばらく無言の時間が続いた。彩音は自分の胸の中で、今こそ本当のことを話すべきだと思いながらも、言葉が出てこなかった。
しかし、美紀の方が先に口を開いた。
「彩音、実はずっと心配してたんだ。最近、私たち、あまり話せてなかったし……何かあったのかなって。」その言葉に、彩音はドキリとした。美紀は自分のことを気にかけてくれていたのだ。彩音は、今までのことを思い返しながら、静かに口を開いた。
「美紀……ごめんね。ずっと、あなたのことを避けてた。どうしてかって言うと……自分があなたに嫉妬してたからなんだと思う。」美紀は驚いた表情で彩音を見つめた。彩音は続けた。
「展示会の時、私は結城薫さんから酷評されて……それが本当にショックだったんだ。それ以来、絵が描けなくなってしまって。あなたが結城さんから褒められているのを見て、羨ましかった。自分には何もできないんじゃないかって、そう思うと、あなたと一緒にいるのが辛くなってしまって……。」彩音の声は震えていたが、彼女は何とか言葉を続けた。彼女の目には涙が滲み始めていた。
「あなたは、いつも明るくて、絵も素晴らしくて……私は、そんなあなたと比べて、自分が本当に小さく感じた。あなたに会うたびに、自分が情けなくなって……だから、避けてしまってたの。」彩音は、涙をこらえながら美紀に目を向けた。美紀は真剣な表情で彩音を見つめていた。そして、彩音が話し終わると、美紀は静かにうなずいた。
「彩音、そんな風に感じてたんだね……気づいてあげられなくてごめんね。でも、私も……実は辛いことがあったの。」美紀の言葉に、彩音は驚いて顔を上げた。
「私も、結城さんに褒められた時、正直すごく嬉しかった。でも、次の作品に対するプレッシャーが大きくて……それに、あなたが私を避けてるって感じた時、どうしてなのか分からなくて不安だった。私はあなたのことを心から尊敬してるし、一緒に頑張りたいと思ってた。でも、うまくいかなくて……ずっと悩んでたんだ。」美紀の目にも、涙が滲んでいた。彼女は続けた。
「彩音が私に嫉妬してたって言ってくれたけど……私も、あなたが羨ましかったことがあったよ。いつも真剣に絵と向き合って、作品を作り上げる姿は、私にとって本当に刺激になってた。だから、私も、あなたに遠慮せずに話せばよかった。」二人は静かに見つめ合い、互いの本音を共有することで、これまでのわだかまりが少しずつ溶けていくのを感じた。
「ありがとう、美紀。話してくれて。」 「こちらこそ、彩音。正直に話してくれて嬉しいよ。」二人は再び美術館の絵を見つめながら、肩を並べて歩き始めた。以前のように、言葉にしなくても伝わる友情の感覚が、少しずつ戻ってきたようだった。
その夜、彩音は久しぶりに心が軽くなったのを感じた。美紀との対話を通じて、自分が避けていた本当の理由に向き合い、彼女と再び絆を取り戻すことができた。彼女の心には、新しい作品に取り組むための希望が灯っていた。
これまで感じていた孤独感や劣等感が少しずつ消え、彩音は再び自分自身と向き合う準備が整いつつあった。そして、彼女はもう一度、自分の感性を信じ、描くことの意味を見つけ出すために進んでいく決意をした。