瑞輝との会話からしばらく経っても、神谷彩音はまだ自信を取り戻しきれずにいた。けれども、彼の優しい言葉が心のどこかで響き続けていた。「他人と比べる必要はない」「自分の感性を信じることが大事だ」。瑞輝の言葉が、まるで柔らかな光のように、彼女の心の奥に残っていた。
今日も彩音は、クィル・アンカのカフェスペースに足を運んでいた。窓際の席に座り、静かに息を吸い込む。彼女はふとスケッチブックを取り出し、広げた。それは、以前なら胸を締め付けるような恐怖の象徴だったが、今は少し違っていた。白いページが彼女に語りかけるように、彼女を待っていた。
「無理をしなくていいんだ…」彩音は、自分自身にそう言い聞かせた。焦ることなく、ただ今の気持ちを描き出せればいい。そう思うと、彼女の手は鉛筆を取り、紙の上に小さな線を引いた。その線は、以前と比べるとぎこちなかったが、それでも確かな一歩だった。
しばらくの間、彩音は何も考えずにただ紙の上に線を引き続けた。線は最初はランダムで意味を持たないように見えたが、それでも何かが生まれようとしていた。彼女は自分の心の中にある感情を、無理に押し出そうとはせず、自然と紙に向かわせるようにした。
「これは……私自身かもしれない」ふと、彩音は気づいた。描かれているものは抽象的な形だったが、彼女の中にある不安や希望、再び描きたいという気持ちが、知らず知らずのうちに形になっていた。鉛筆の先が紙の上を滑るたびに、心が少しずつ軽くなっていくのを感じた。
「私は、描けるんだ……」心の中でその言葉が浮かび、少しずつ確信に変わっていった。彩音は急ぐことなく、ゆっくりとしたペースでスケッチを続けた。前回まで感じていた重たいプレッシャーは、少しずつ薄れていき、自分のリズムで進んでいける安心感が広がった。
彩音は、美紀との関係についても考えていた。瑞輝との対話を経て、彼女は自分がなぜ美紀を避けていたのか、その理由を少しずつ理解し始めていた。結城薫からの酷評を受けて以来、彩音はずっと他者と自分を比べることに囚われていた。美紀の成功を目の当たりにするたびに、彩音は自分が劣っていると思い込み、彼女を祝福するどころか、距離を置いてしまっていた。
(本当は、美紀を避けていたのは、自分が怖かったからだ。)彩音はスケッチを続けながら、心の中で自分に問いかけた。美紀が自分を心配してくれていることも分かっていたし、彼女が本当に親身であったことも知っていた。だが、それでも自分の感情が邪魔をしていた。自分が弱いことを認めたくなかった。美紀の前で、無力な自分を見せるのが怖かったのだ。
その思いが次第に、彩音の心に浮かんでは消えていく。しかし、今なら少しずつ彼女の気持ちを整理し、美紀と向き合えるかもしれないと思えた。瑞輝の言葉が支えとなり、少しずつだが、彩音は自分自身を取り戻しつつあった。
その日、彩音は時間を忘れるほどスケッチブックに向き合っていた。最初は小さな線から始まったが、気づけば彼女の手は自然に動き、次々と新しい形を描き出していた。完璧を目指すのではなく、ただ自分の感覚に従って描く。それが、今の彩音にとって必要なことだった。
カフェの窓から、夕暮れの柔らかな光が差し込んでいた。外の世界は次第に静かになり、店内にも落ち着いた空気が広がっていた。彩音はふと鉛筆を置き、スケッチブックを閉じた。
「少しずつだけど、私は前に進んでいる……」心の中でそうつぶやくと、彼女は穏やかな気持ちでカフェを後にした。まだ完璧な答えは見つかっていない。だが、彩音は確かに自分を取り戻しつつあった。
美紀との関係も、すぐに修復できるわけではないかもしれない。だが、少なくとも彩音は、もう一度彼女に向き合う準備をし始めていた。
自分の感性を信じ、自分のペースで進む。それが、今の彩音にとって最も大切なことだと、彼女はようやく理解し始めていた。