瑞輝の言葉に少し救われた神谷彩音だったが、心の奥にはまだ深い孤独と不安が残っていた。彼女はスケッチブックに向かうことが少しずつできるようになったものの、以前のような情熱と自信はまだ戻ってきていなかった。特に、親友である美紀との距離が広がりつつあることが、彩音の心にさらなる影を落としていた。
大学のキャンパスで顔を合わせるたびに、美紀の明るい笑顔が彩音の胸を締め付けた。彼女は他の学生たちと楽しそうに話し、次の展示会に向けて意欲的に準備を進めていた。結城薫から高評価を受けた美紀は、周囲からますます注目を集める存在となっていた。
一方、彩音はまだ絵を描くことへの不安と自己嫌悪から完全に抜け出せていなかった。スケッチブックに向き合う時間が少し増えたとはいえ、彼女の心には「自分は劣っているのではないか」という疑念が消えずに残っていた。そして、その疑念が、彼女を美紀から遠ざけていく原因となっていた。
ある日、授業が終わった後、彩音はカフェテリアで一人静かにコーヒーを飲んでいた。美紀と過ごす時間が以前より少なくなっていたことに、自分でも気づいていたが、どうしても彼女と素直に向き合うことができなかった。自分が美紀の成功を素直に祝えないことに対する罪悪感もあり、その感情をどう処理すればいいのか、彩音は分からなかった。
「彩音、ここにいたんだ!」美紀の明るい声が、突然彼女の耳に届いた。彩音が顔を上げると、美紀が笑顔でカフェに入ってきた。周りの友人たちと一緒に来たようで、手を振ってこちらに向かって歩いてくる。
「最近、全然話してないじゃない。どうしてるの?」美紀は席に座ると、心配そうに彩音を見つめた。彩音は一瞬、胸の奥にチクリとした痛みを感じた。確かに、最近は美紀とまともに話すことができていなかった。だが、それをどう伝えればいいのか、彩音は言葉が見つからないままだった。
「うん、ちょっと忙しかっただけ……」彩音は無理に微笑んだ。美紀はその言葉を聞いて、眉をひそめた。彼女は彩音が本当のことを話していないことに気づいていた。
「本当に?彩音、なんか元気がないように見えるよ。私、心配してたんだ。最近、スケッチもしてないみたいだし……何かあった?」美紀の問いかけは優しく、彩音を気遣っていることが伝わってきた。しかし、それが彩音にとってはますます重荷に感じられた。美紀が心配してくれていることは分かっていたが、その優しさが、彼女にとって今は苦痛だった。成功している美紀に、自分の悩みを打ち明けることができない。自分が弱い存在だと認めたくない気持ちが、彩音の口を塞いでいた。
「本当に大丈夫。美紀こそ、最近忙しそうだね。次の展示会、楽しみにしてるよ。」彩音はまた、偽りの笑顔を作った。それを見て、美紀は一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐに話題を変えた。
「ありがとう!次はもっと良い作品を作ろうと思ってるの。結城さんからも次のステップに進めるって言われたし、今が頑張りどきだと思ってるんだ!」美紀は自信に満ちた笑顔を浮かべて話し続けた。彩音はその姿をじっと見つめながら、ますます自分が小さく感じるのを止められなかった。
(どうして、美紀はこんなに輝いているのに、私はこんなに暗いんだろう……)彩音は美紀が輝いていることを素直に祝福することができない自分が嫌になった。彼女の成功がますます自分を追い詰め、美紀と一緒にいること自体が苦痛に感じられるようになっていた。
それから数日後、彩音は教室の片隅に座り、またスケッチブックを開いていたが、鉛筆は手の中で止まったままだった。周りの学生たちが次々と新しい作品を仕上げていく中、彩音だけが時間に取り残されているように感じた。心の中には、自分が何も成し遂げられていないという焦りと、美紀との距離が広がっていく不安が渦巻いていた。
その日の授業が終わる頃、美紀が再び彩音の席に近づいてきた。彼女の顔には少し心配そうな表情が浮かんでいた。
「彩音、授業の後で少し話せる?」彩音は一瞬、心臓がドキリと跳ねた。美紀が真剣な顔をしているのが分かり、何か重大な話をされる予感がした。だが、彩音はその瞬間にどうしても向き合いたくなかった。
「今日はちょっと急いでて……また今度にしよう?」彩音は無意識にそう言ってしまった。美紀の心配に応えられない自分が歯がゆかったが、それ以上は何も言えなかった。美紀は短くため息をつき、微かに眉をひそめた。
「……分かった。また今度話そうね。」美紀はそのまま去っていったが、その背中を見送る彩音の胸の中には、重たい罪悪感が残った。
その日、彩音は一人で教室に残り、またスケッチブックを見つめた。描きたい気持ちはあっても、どうしても手が動かない。心の中で、自分の中にあるものを描こうとするたびに、美紀の成功や自分の劣等感が邪魔をしてしまう。
彩音は、ついに鉛筆を放り投げ、頭を抱えた。
(私は、どうしてこんなにダメなんだろう……)心の中で何度も問いかけるが、その答えは見つからない。彩音と美紀の間にあった固い絆が、今ではどんどん崩れていくように感じた。そして、その原因は自分自身にあることを痛感していた。
(美紀は、私のことを心配してくれているのに……私はどうしてこんな風にしか思えないんだろう。)彩音は、自分の孤独がますます深まっていくのを感じながら、静かに涙を流した。