タイトル

第3章: クィル・アンカでの再会

展示会での挫折から数週間が過ぎ、神谷彩音の心は依然として重い霧の中に閉ざされていた。スケッチブックを開いても、鉛筆を持っても、何一つ描けない日々が続いていた。キャンパスに足を運んではみるものの、授業が終わるとすぐに家へ帰るか、静かに自分の世界に閉じこもるように過ごしていた。彩音は孤独と自己嫌悪に囚われ、ますます自分の心を閉ざしていた。

そんなある日、彼女はふと思い立ってクィル・アンカへ向かうことにした。この画材店は、幼い頃からの行きつけであり、彩音にとって特別な場所だった。小さな頃から、絵を描くたびにこの店で新しい画材を買い揃え、その色とりどりの絵具に囲まれて心が落ち着いたことを思い出す。


クィル・アンカの扉を開けると、店内には懐かしい香りが漂っていた。色とりどりの絵具や筆、キャンバスが並び、いつもと変わらない穏やかな雰囲気が広がっている。彩音はふと安心感を覚え、無意識に肩の力が抜けるのを感じた。

彼女はカフェスペースに向かい、窓際の席に腰を下ろすと、目の前に広げたスケッチブックを眺めた。しかし、ページを開いても、依然として描く気力は湧いてこなかった。彼女の手は鉛筆を持つものの、何度も紙の上で止まったままだった。まるで鉛筆が彼女の心の重さに耐えかねているようだった。

(やっぱり、まだ描けない……)

彩音は深いため息をつき、カフェの静かな空間に溶け込むようにぼんやりとした目で窓の外を見つめた。外の街並みは晴れやかで、陽の光が木々を優しく照らしていたが、彼女の心は依然として曇っていた。

その時、店員の瑞輝がふと彼女の席に近づき、いつもの優しい笑顔で声をかけた。

「彩音さん、こんにちは。最近、元気がないみたいですね?」

彼の落ち着いた声に、彩音は少し驚き、顔を上げた。瑞輝は彼女の表情を見てすぐに気づいたのだろう。彼の目には、彩音がどれだけ苦しんでいるかが伝わっていた。

「瑞輝さん……こんにちは。」

彩音はかろうじて笑顔を作りながらも、その声には力がなく、心の中の葛藤がにじみ出ていた。瑞輝はそんな彼女の様子に気づき、そっとカフェのカウンター越しに目をやりながら、彩音の前に置かれたスケッチブックに視線を移した。

「何か、特別にお手伝いできることはありますか? 最近、悩んでいるんですか?」

瑞輝の穏やかな問いかけに、彩音はしばらく黙ったままだった。心の中では答えたくない気持ちと、彼にだけは本音を話したいという気持ちが葛藤していた。彼女は少し考え込んだ後、ため息をついてから、ぽつりと口を開いた。

「最近……絵が描けなくなってしまって。自分の作品が、周りの人と比べて本当に劣っているような気がして……。特に美紀さんの絵と比べると、どうしても自分に自信が持てなくて……」

彩音の言葉は途切れ途切れだったが、瑞輝は彼女の気持ちに寄り添うように、じっと耳を傾けていた。彩音は初めて、結城薫から酷評を受けてからの孤独や自己否定の感情を、誰かに打ち明けたのだった。

瑞輝はしばらく静かに彩音の言葉を聞いた後、少し微笑みながら、店内に並んでいる絵具を指差して言った。

「見てください。この店に並んでいる絵具たち、色も形も全部違いますよね。どれが一番良い色だと思いますか?」

彩音はその言葉に少し驚いて、店内の棚を見つめた。赤や青、黄色の鮮やかな絵具がずらりと並んでいる。

「うーん……どれが一番良い色かなんて……全部、それぞれに美しいけれど……」

「そうでしょう?」と瑞輝は優しく頷いた。「どの色も、それぞれに美しさがあります。誰かが選ぶわけじゃなく、それぞれの色がそれ自体で美しいんです。彩音さんの絵も同じですよ。他の誰かと比べる必要はありません。大事なのは、彩音さんが何を描きたいか、どう感じているかです。」

瑞輝の言葉は、彩音の心に静かに染み込んでいった。今まで誰かと自分を比べてばかりで、自分自身の感性や表現を見失っていたことに気づいた。

「でも、私の感覚が本当に正しいのかどうか、最近はそれすらわからなくなってしまって……」

彩音は不安げにそう言ったが、瑞輝はにこりと微笑んだ。

「それでいいんです。悩むことは、成長する証拠です。でも、その悩みをどう使うかが大切です。他人と比べることよりも、自分の気持ちを信じて描くこと。それが一番重要だと思いますよ。」

瑞輝の言葉に、彩音はしばらく考え込んだ。彼の言葉が、ふさぎ込んでいた心に少しずつ光をもたらすように感じた。

「ありがとう、瑞輝さん。なんだか、少しだけ心が軽くなった気がします。」

彩音は、久しぶりに心から微笑むことができた。瑞輝はそれを見て、少し安心したように言った。

「いつでも、ここに来てくださいね。クィル・アンカは、彩音さんにとって少しでも安心できる場所であれば嬉しいです。」

彩音は、瑞輝のその言葉に再び微笑み、少し肩の力が抜けた。


その後、彩音は再びスケッチブックを開き、ゆっくりと鉛筆を紙の上に滑らせた。まだ完璧な線ではないが、少しずつ、彼女の手が動き始めた。瑞輝の言葉が、彼女にとって新たな一歩を踏み出す勇気を与えてくれたのだ。

外の光が少しずつ柔らかくなっていく夕暮れ時、彩音は再び描くことの喜びを思い出し始めた。クィル・アンカでの再会は、彼女にとって大きな転機となり、彼女の心に小さな光が灯った瞬間だった。

彩音は、まだまだ先の見えない道のりにいるが、もう一度、描くことに向き合う準備ができていた。

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