展示会が終わってから数日が過ぎたが、神谷彩音の心は深い霧の中に沈んだままだった。結城薫からの酷評が頭から離れない。彼の冷たい声が、彼女の心に何度も反響していた。
「凡庸だ。感性がない。」その言葉が、彩音の心の中で繰り返されるたびに、まるで自分が何も価値のない存在だと言われたかのように感じた。
その日も彩音は大学の美術教室にいたが、誰とも話すことなく、ただ窓の外をぼんやりと見つめていた。教室の中は他の学生たちが次の展示会に向けて新しい作品を描き始めるエネルギーに満ちていた。だが、その活気は彩音にとって遠い世界の出来事のように感じられた。
彩音はスケッチブックを広げ、鉛筆を手に取ったが、何も描くことができない。鉛筆を紙に当てるだけで、指が震え、頭の中は真っ白になった。彼女の手は、何度も紙に線を引こうとしたが、結局はただページをめくるだけで、何一つ描けないままだった。
(私はもう、描けないのかもしれない……)教室の片隅に座っている彩音の姿は、他の学生たちからすっかり見えなくなっていた。彼女の友人たちは、それぞれの作品に没頭しており、彩音が苦しんでいることに気づくことはなかった。かつては共に切磋琢磨していた仲間たちとも、言葉を交わすことがなくなり、彩音は徐々に孤立していった。
その日の授業が終わり、学生たちが片付けを始める中、彩音はまだスケッチブックを閉じたまま座っていた。周りの会話や笑い声が遠く感じられる。いつもなら真っ先に話しかけてくれる親友の美紀も、他の学生たちと楽しそうに話していた。
美紀は結城薫から高く評価されたことで、ますます注目を浴びる存在となり、彼女の作品は多くの学生たちから賞賛されていた。彼女の明るい声が教室中に響き渡り、周りの人々も自然と引き寄せられていく。だが、その中に彩音はいなかった。
教室を出る間際、美紀が彩音に気づいて声をかけた。
「彩音、どうしたの? 最近元気ないよね?」美紀の声は心配そうだったが、彩音はその声を聞くと、胸の奥がズキズキと痛んだ。美紀は悪気なく彩音を心配しているのだろうが、その言葉がかえって彼女にとっては重荷だった。
「大丈夫だよ、ただちょっと……疲れてるだけ。」彩音はそう言って、無理に笑みを作った。しかし、その言葉が自分自身に対する嘘だということは、自分が一番よくわかっていた。本当は、全然大丈夫じゃない。絵が描けなくなったこと、そして美紀の成功がますます眩しく見えることに、彩音はどうしようもない劣等感を抱えていたのだ。
美紀はその言葉を聞いても納得していないようだったが、それ以上は何も言わず、他の友人たちの元へ戻っていった。彩音はその背中を見送りながら、自分と美紀の距離がどんどん広がっていくような気がしていた。
(美紀は、私なんかもう気にしてないんだ……)そう思うと、心の中にポツリと孤独の影が広がった。
その夜、彩音は自宅のアトリエでスケッチブックを開いたが、やはり何も描けなかった。結城の批評が耳にこびりついて離れない。彼の言葉が、まるで呪いのように彼女の手を止めていた。以前なら、この静かな時間は彩音にとって一番落ち着ける時間だった。だが、今ではその静寂が彼女をさらに追い詰めていた。
机の上には、使い古された鉛筆と、いくつもの消しゴムの屑が転がっている。それらは、何度も何度も描き直そうとした痕跡だが、結局は何も生まれなかった証拠でもあった。彩音は深くため息をつき、スケッチブックを閉じた。
「もう、描けないのかもしれない……」つぶやく声は、静かなアトリエの中に吸い込まれていく。誰も聞いてくれる人はいなかった。
翌日、彩音は再び大学へ向かったが、その足取りは重かった。キャンパス内で美紀や他のクラスメイトに会うのが嫌で、彩音はわざと遅れて授業に行くようになった。教室に着いた時には、すでに皆が自分の作品に取りかかっており、彩音は教室の隅の席にひっそりと腰を下ろした。
授業が進む中で、教授が学生たちに声をかけ、次の展示会に向けての準備を始めるよう促していた。だが、彩音はその言葉がまるで別の世界のことのように感じられた。次の展示会に向けて新しい作品を作る気力など、今の彼女には全く湧いてこなかった。
ふと顔を上げると、美紀が笑顔で教授と話し合いながら、新しいキャンバスに向かって筆を走らせているのが見えた。彼女の作品は鮮やかで力強く、そのキャンバスに描かれているものは彩音が今まさに失ってしまった「情熱」そのもののように感じた。
(美紀は、どうしてこんなにも自由に描けるんだろう……)彩音は教室の隅から美紀の背中を見つめ、心の中でそうつぶやいた。まるで美紀の背中が、遠い世界にいる誰かのように感じられ、彩音はますます自分が小さく、無力な存在に思えてきた。
その日、授業が終わった後も彩音は教室を出ることができず、しばらく一人で机に突っ伏していた。スケッチブックはまだ開かれたままだが、何も描かれていないページが無言で彼女を見つめている。周りのクラスメイトたちは片付けを終え、次々と教室を後にしていったが、彩音は動けないままだった。
(私は、何をやってるんだろう……)心の中で、繰り返し問いかける。かつて描くことに没頭していた自分は、もうどこにもいなかった。孤独感が胸に広がり、彩音は静かに涙をこぼした。
彩音が完全に孤立していく中で、美紀との距離はますます広がり、彼女は自分自身に向き合うことができず、深い迷いの中に沈んでいく。展示会での酷評が引き金となり、彩音の中に芽生えた孤独と無力感は、彼女のアートへの情熱を奪い、友人との関係さえも壊し始めていた。