神谷彩音は、美術大学の大きな展示会が近づくにつれ、胸の奥がざわついていた。彼女にとって、これまでの大学生活を集大成する重要なイベントだった。日々、手に汗を握りながらキャンバスに向かい、自分の全てをぶつけるように作品を描き続けてきた。それは、彼女にとっての生きがいであり、自分自身を表現する唯一の手段だった。
展示会当日、彩音はキャンバスの前で緊張に押しつぶされそうな気持ちで立っていた。会場の壁には、クラスメイトたちの作品がずらりと並び、それぞれが自信に満ちた表情で自分の作品を見せている。彩音は、その光景に圧倒されながらも、心の中で自分に言い聞かせた。
「私も、ここまで頑張ってきた。大丈夫、私の作品もきっと評価されるはず。」しかし、その自信はすぐに揺らぐことになる。特別審査員として招かれていた美術評論家、結城 薫が彩音の作品の前に立ったとき、空気が一瞬にして冷たくなった。結城の目は作品をじっと見つめ、その表情は変わらない。まるで感情がないかのような無機質な目線だった。
「これは……」 と、結城は静かに口を開いた。彩音は息を飲んだ。胸の鼓動が早まり、手が震えるのを感じた。結城の一言一言が、彼女の将来を左右するかもしれないという重圧が彼女を襲った。
「凡庸だね。」その一言が、彩音の心に鋭く突き刺さった。
「見たことのある構図だし、色の使い方も何も新しくない。技術はそれなりだが、感性が感じられない。アートというよりも、ただの練習作品に過ぎない。」結城の言葉は冷たく、無情だった。彼の声は低く、感情を含まず、まるで彩音の努力を一瞬で否定するかのようだった。彩音はその場で固まった。言葉が出てこない。心の中で、何かを弁解しようと必死に考えるが、結城の批評はすでに彼女を深く傷つけていた。
周りの視線が自分に向けられているのを感じたが、それがさらに彩音を追い詰めた。まるで自分が無価値であると宣告されたかのような感覚が、胸を締め付ける。その後、結城は次の作品に進み、彩音はただ茫然とその場に立ち尽くしていた。彼の言葉が頭の中で何度も反芻される。
「凡庸だ」「感性が感じられない」……その言葉の重みが、彩音の心に深い傷を残した。
一方で、親友の美紀の作品の前には、すぐに笑顔と賞賛が広がっていた。美紀の作品は、結城からも高く評価された。
「これがアートだ。」と結城は言い、周囲の人々が賛同の声を上げる。
美紀はその瞬間、まるでスポットライトを浴びているかのように輝いて見えた。彼女の作品は大胆な色彩と力強い構図で観る者を圧倒し、まるで彼女自身の個性そのものがキャンバスに具現化されたようだった。彩音はその光景を、まるで夢の中にいるような感覚で見つめていた。
美紀の成功に喜びを感じるはずだったが、その感情はどこにも見つからなかった。代わりに、心の中には嫉妬と無力感が静かに広がっていく。
(私は、何を描いていたんだろう……)彩音は目の前の自分の作品に視線を戻した。最初は自信を持って描いたはずのその絵が、今ではまるで他人の作品のように見えた。結城の言葉を受けて、彼女の作品は色を失い、光を失い、ただの無機質な絵に変わってしまったかのように感じられた。
展示会が終わった後、彩音は何とかその場を立ち去ろうとしたが、足が動かない。周囲のクラスメイトたちは成功を祝う声で溢れており、その輪の中心には美紀がいた。彼女は笑顔で友人たちと話し、未来の展望を楽しそうに語っていた。
「この前の展示会で、結城さんからこんなに褒められるなんて、本当に嬉しい! 次の作品も絶対に頑張らなくちゃ。」美紀の明るい声が彩音の耳に届くたびに、胸の奥が痛んだ。彼女は親友の成功を素直に祝えない自分に対して、自己嫌悪を抱きながらも、どうしてもその場から離れられなかった。
(美紀はこんなにも成功しているのに、私は……)彩音は、周囲の笑顔と祝福の声がますます遠く感じられた。彼女は一人、静かにその場を去り、会場の出口へと向かう。誰にも見られたくないという思いが、彼女の背中を押していた。
外に出た彩音は、冷たい風が頬を撫でるのを感じながら、心の中でぐるぐると考え続けた。結城 薫の言葉、美紀の成功、そして自分の無力感。全てが重なり合い、彼女の心に暗い影を落としていた。
(私には、才能がないのかもしれない……)その夜、彩音は自分のアトリエに戻っても、スケッチブックを開くことができなかった。鉛筆を手に取っても、何も描く気力が湧いてこない。まるで、心の中にあった創作の炎が消えてしまったかのようだった。
彼女は、結城の言葉が頭から離れないまま、静かに涙を流した。自分が愛していたアートが、今では恐怖に変わってしまったことに気づいたのだ。