タイトル

第5章: 霧人の訪れ

夜が静かに更けていく中、漆(うるし)は眠れずにベッドの上で横になっていた。心の中には、ルカとの出会いが繰り返し浮かんでくる。彼が語った「過去の改ざん」と「未来を救うための選択」。そして、自分がその運命の一部だと言われたことが、頭から離れなかった。

両親がしていた研究、瑠璃(るり)の意識不明、そしてルカとの出会い――それらがすべて繋がっているのだろうか。漆は答えを見つけようと考え続けたが、何も分からないまま時間だけが過ぎていった。ベッドの中で瞼を閉じようとしたが、心は落ち着かず、何かが近づいているような不安感が漆を覆っていた。

その夜、ふいに家の中が異様に静まり返った。

まるで時間そのものが止まってしまったかのように、外から聞こえていた風の音や街の喧騒さえも消え去った。漆は一瞬、何が起こったのか分からずにベッドの上で身を起こした。

すると、部屋の中に薄い霧がゆっくりと立ち込め始めた。窓は閉まっているはずなのに、どこからかその霧が静かに流れ込んでくる。漆は驚きとともに、心臓が高鳴るのを感じた。

「何だ、この霧……?」

彼が不安げに呟いたその時、部屋の隅に一人の影が現れた。

黒いコートをまとい、静かに佇むその男は、まるで霧と一体化しているかのように不気味な存在感を放っていた。男は漆の方へゆっくりと歩み寄り、無言のまま彼を見つめた。

「君が漆だな。」

静かで低い声が、部屋の中に響き渡った。その声には奇妙な落ち着きがあり、漆の心をすくい上げるような感覚があった。

「……誰だ?」

漆はベッドから起き上がり、男を警戒しながら問いかけた。男は一瞬だけ笑みを浮かべたが、それは感情のない冷たい微笑みだった。

「私の名は霧人(きりと)。君の前に現れるのは、これが初めてではない。」

その言葉に漆は驚愕した。初めて見る男のはずなのに、彼はまるで漆を知っているかのように語る。そして、その名前――霧人。どこかで聞いたことがあるような気がしたが、思い出せないまま、漆はただ彼の言葉に耳を傾けるしかなかった。

「君の両親がしていたこと、そしてルカが君に語ったこと。その全ては、この世界に深く関わっている。」

霧人はそう言って、漆に一歩近づいた。彼の瞳は深い霧のように見え、そこには何か底知れぬ力が宿っているようだった。

「君は選ばれた存在だ。世界の流れを正すために、君には特別な役割が与えられている。」

その言葉はルカの言葉と重なった。漆の頭の中は混乱していたが、同時にこの二人がただ事ではない存在であることを感じ取っていた。彼は何をすればいいのか、自分がどのような役割を持っているのか、まだ理解できなかった。

「何のために……俺は選ばれたんだ?」

漆は震える声で問いかけた。霧人は静かに目を閉じ、深い息をついてから答えた。

「未来が歪み、滅びに向かおうとしている。それを防ぐために、時の流れを正さなければならない。だが、それを行うためには、『永綴(えいてつ)』と『秩序のペン』が必要だ。」

漆は驚きの表情を浮かべた。「永綴」――それは父の書斎で見つけた、あの古びた書物の名前だ。そして「秩序のペン」とは何なのか? 漆は再び混乱に陥った。

「永綴はすでに君の手にあるはずだ。そして、君はその書物を使い、時の流れを修正する役割を担っている。」

霧人は、まるで当たり前のことのように語った。漆は戸惑いながらも、父の残した永綴のことを思い出し、急いで机の引き出しからその書物を取り出した。確かにそれは、父の書斎で見つけたものだ。だが、その使い方や意味については何も知らなかった。

「だが、永綴だけでは不十分だ。」

霧人はそう言って、懐から一本の美しいペンを取り出した。そのペンはまるで光を放っているかのように輝き、漆はその神秘的な姿に目を奪われた。

「これが『秩序のペン』だ。これを使えば、永綴に記された歴史を修正し、未来を変えることができる。」

漆は、震える手でそのペンを受け取った。ペンの持ち手には繊細な模様が彫り込まれており、それを持つだけで不思議な力が漆の体に流れ込んでくるような感覚がした。

「君には、未来を救う責任がある。君の手で、時の歪みを正し、世界を再び秩序に戻すのだ。」

霧人の言葉は、漆の心に重く響いた。自分が世界の未来を背負っているという現実に、まだ完全に受け入れることはできなかった。しかし、手の中にある永綴と秩序のペンがその運命を証明している。

「……俺に、本当にそんなことができるのか?」

漆は不安げに呟いた。自分が選ばれた存在だとしても、その責任の大きさに圧倒されていた。霧人は静かに微笑んで答えた。

「君にはその力がある。だからこそ、君は選ばれたのだ。恐れることはない。君の手で、未来を救うのだ。」

霧人はそう言って、再び霧の中に消えていこうとしていた。彼の姿が次第に薄れていく中、最後に一言だけ残した。

「時が来た時、君は真実を知るだろう。自分が何をすべきかを。」

その言葉を残し、霧人は完全に姿を消した。霧が消え、部屋は再び静けさを取り戻した。漆はその場に立ち尽くし、手の中の永綴と秩序のペンを見つめた。

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漆の心には、重い決意が芽生え始めていた。自分が未来を救うために選ばれたという現実。そのために、両親が研究を続けていたこと。そして瑠璃が犠牲になったこと――すべてが繋がりつつあった。

漆は静かに息を整え、永綴を抱きしめた。

「俺が……この手で、未来を変える。」

その言葉が、彼の心に深く刻まれた。そして、運命に向き合う覚悟が、漆の中で徐々に強まっていった。

霧人の訪れ