漆(うるし)は、秋の風が頬を撫でる中、夕暮れに染まる街を歩いていた。空は茜色に染まり、雲が金色に輝いている。学校の帰り道、彼はいつも姉の瑠璃(るり)と一緒に帰るのが常だったが、今日は彼女が部活で遅くなると言っていたため、一人で家路についていた。
木々の葉は赤や黄色に色づき、風に乗って舞い散る。足元で乾いた葉がカサカサと音を立てるたびに、漆は季節の移ろいを感じていた。彼は深く息を吸い込み、涼しい空気が肺に満ちる感覚を味わった。
「今日は夕飯、何にしようかな……」
漆は独り言を呟きながら、家族と過ごす温かな夕食の風景を思い浮かべていた。父は最近忙しく、帰りが遅いことが多かったが、母と瑠璃と一緒に食卓を囲む時間は何よりも大切だった。
家の近くに差し掛かると、見慣れない黒い車が数台、家の前に停まっているのが目に入った。高級車でもなければ、近所の人のものでもない。不安が胸をよぎる。
「何だろう、誰か来てるのかな……?」
漆は足を早め、家の門をくぐった。玄関の扉を開けると、家の中は異様な静けさに包まれていた。普段なら、母がキッチンから「おかえりなさい」と声をかけてくれるはずなのに、その声は聞こえない。
「お父さん?お母さん?」
呼びかけても返事はない。靴を脱ぎ、リビングへと足を踏み入れると、そこには信じられない光景が広がっていた。
数人の警察官が立ち並び、その中央には手錠をかけられた父と母の姿があった。母は青ざめた顔でうつむき、父は苦悶の表情で何かを言おうとしている。
「な、何が起きてるんですか!」
漆は叫ぶように問いかけた。警察官の一人が冷たい目で彼を見つめる。
「君は灰原漆くんだね。お父さんとお母さんは、重大な容疑で逮捕する」
頭の中が真っ白になる。足が震え、立っているのがやっとだった。父と母が犯罪者?そんなはずがない。あの誠実で優しい両親が、どうして。
母が漆に向かって手を伸ばそうとするが、手錠がそれを阻んだ。彼女の目には涙が浮かんでいる。
「漆、ごめんね。でも心配しないで」
その声はかすかに震えていた。父もまた、何か言いたげに口を開きかけたが、警察官に腕を掴まれ、強引に連れ出されてしまう。
「待ってください!一体何の容疑なんですか!」
漆は必死に食い下がるが、警察官たちは無言のまま父と母を連行していく。玄関先で、両親が警察車両に押し込まれるのを、漆はただ呆然と見つめるしかなかった。
「お父さん!お母さん!」
叫んでも、その声は虚しく夜空に消えていく。両親は何も言わず、悲しげな目で彼を見つめたまま、車のドアが閉められた。サイレンの音もなく、黒い車は静かに走り去っていった。
漆の頭は混乱していた。何がどうなっているのか全く分からない。周囲の風景がぼやけ、足元がふらつく。彼は玄関のドアに手をつき、深呼吸を試みたが、心臓の鼓動が速くなるばかりだった。
「これは……何かの間違いだ」
必死に現実を否定しようとするが、目の前で起きた出来事はあまりにも鮮明で、容赦がなかった。冷たい夜風が彼の頬を撫で、寒さが身に染みる。
しばらくその場に立ち尽くしていた漆は、ふと我に返り、家の中へと戻った。玄関のドアを閉める音がやけに大きく響く。家の中はまるで時間が止まったかのように静まり返っていた。普段は温かな明かりが灯るリビングも、薄暗く冷たい雰囲気に包まれている。
漆はソファに腰を下ろし、震える手でスマートフォンを取り出した。ニュースサイトを開くと、見出しに両親の名前が載っているのが目に入った。
「製薬会社研究員、灰原夫妻を逮捕――不正投与とデータ改ざんの疑い」
記事を読み進めるうちに、漆の心はさらに深く沈んでいった。信じられない。父と母がそんなことをするはずがない。彼らは常に患者のことを第一に考え、誠実に仕事をしていた。
「何かの間違いだ。きっと誤解されているんだ」
そう自分に言い聞かせても、不安は消えない。頭の中で様々な考えが巡り、心がざわつく。
その時、ドアの開く音がして、瑠璃が帰ってきた。彼女は家の前に停まっていた警察車両を見て、ただならぬ事態を察したのか、険しい表情でリビングに駆け込んできた。
「漆、何があったの?お父さんとお母さんは?」
漆は何と答えればいいのか分からず、ただ俯いた。瑠璃は彼の様子を見て、事の重大さを悟ったようだ。彼女は静かに漆の隣に座り、その肩に手を置いた。
「大丈夫。私たち二人で乗り越えよう」
その言葉は落ち着いていたが、瑠璃の目には不安の色が見えた。彼女もまた、心の中で動揺しているに違いない。しかし、弟である漆を支えようと、必死に強がっているのだ。
漆はかすかに頷いたが、言葉は出てこなかった。二人はしばらく無言のまま、静寂の中に座っていた。時計の針の音だけが、規則正しく響いている。