第4話 フィオナの試み
ナオは、日常の中で少しずつ自信を取り戻し、心の安定を感じていた。「クィルアンカ」に通うことで、瑞輝の温かさに触れ、自己表現の大切さに気づいたナオは、過去の自分とは違う自分になりつつあることを感じていた。彼女は、自分の思いを言葉にすることができるようになり、自分のペースで未来に向けて一歩ずつ進んでいた。
ある日、ナオは街中を歩いていると、ふとした瞬間に見覚えのある姿が視界に入った。それは、あの頃のまま変わらない笑顔で友人と談笑している――神崎紅葉だった。過去に彼女を傷つけ、自己肯定感を奪い去った紅葉との再会に、ナオの心は瞬時に揺さぶられた。
紅葉は、友人たちと楽しそうに話をしながら通りを歩いていた。ナオは、気づかれないようにその場を離れようとしたが、体が硬直して動けなくなった。心臓がドキドキと高鳴り、手足が冷たくなる。過去の記憶が鮮やかに蘇り、胸が苦しくなった。
「あの頃と何も変わっていない…」
紅葉が放った言葉の一つ一つが、今もなおナオの心の奥底に棘のように残っていた。「誰も読まないよ」「価値がない」――その言葉が、ナオの心を押しつぶし、無力感と自己嫌悪を植えつけていたのだ。
紅葉は、ナオに気づかず友人たちと笑いながらそのまま通り過ぎた。しかし、ナオはその背中を見つめ続け、心がざわつくのを感じていた。いまの自分は、成長しているはずだ。瑞輝のおかげで、少しずつ心を開き、自分を表現することの大切さを学んできた。しかし、それでもなお、紅葉という存在は、ナオの心に大きな影を落とし続けていた。
家に帰り、ナオは机に向かってノートを開いたが、ペンは全く進まなかった。紅葉との再会が、再び彼女の心を乱していた。過去の傷が再び蘇り、まるで自分が何も変わっていないかのような感覚に陥っていた。
「私は、まだ過去に囚われているの?」
ナオはノートを閉じ、ため息をついた。紅葉に会ったことで、彼女は自分の中にまだ消えない恐怖や不安があることに気づかされた。自分がいくら前に進もうとしても、過去がいつまでもついてくるように感じられた。
翌日、ナオは再び「クィルアンカ」を訪れた。瑞輝はいつものように優しく彼女を迎えてくれたが、ナオが何かに悩んでいることをすぐに察した。
「何かあったの?」
瑞輝が心配そうに尋ねると、ナオは少し躊躇したものの、ゆっくりと紅葉との再会について話し始めた。過去のいじめ、そしてそれが今もなお自分を苦しめていること。紅葉を目の前にして、再び自分が無力だと感じたことを打ち明けた。
瑞輝は静かにナオの話を聞き、少しの間考え込んだ後、穏やかに言った。
「過去の傷は、簡単には消えないよ。でも、ナオちゃんは変わってきたよ。君はもう、過去に押しつぶされるだけの存在じゃない。自分の言葉を、未来に向けて紡ぎ始めてる。それは、とても大きな一歩だと思うんだ。」
ナオはその言葉に少し驚いた。彼女自身は、自分が成長しているという実感をあまり持っていなかったからだ。しかし、瑞輝の言葉を聞くと、確かに過去の自分とは違う部分があることに気づき始めた。彼の言葉が、ナオの心に少しずつ自信を取り戻させた。
「自分の気持ちに正直になって、紅葉と向き合うのは難しいかもしれない。でも、今のナオちゃんなら、それができると思う。過去の傷と向き合うことも、自分が未来に進むための一歩なんじゃないかな?」
瑞輝の言葉に、ナオは心が少し軽くなるのを感じた。紅葉に対して恐怖や不安を抱えている自分も、瑞輝の温かさに触れ、自分自身を少しずつ解放しつつある今の自分も、全てが自分なのだ。
「クィルアンカ」を後にしながら、ナオは心の中で少しずつ整理を始めていた。紅葉との再会で感じた不安や恐怖は、過去の自分に対するものだった。しかし、瑞輝が言うように、ナオは変わり始めていた。過去の自分を引きずるだけでなく、未来に向けて言葉を紡ぐことができるようになったのだ。
「私、成長してるんだ…」
ナオは小さく呟いた。紅葉との再会を避けるのではなく、過去と向き合うことで自分がどう変わってきたのかを確認することができた。自分が書き続けている物語も、過去に縛られないための一つの手段だった。書くことで、自分の感情や経験を整理し、未来へと繋げることができる。
ナオは心の中で決意を固めた。過去に縛られるのではなく、過去と向き合いながら未来に進むために――紅葉と向き合う時が来たのかもしれない。
「私は、もう過去の自分じゃない」
自分自身を見つめ直し、成長したことを実感したナオは、紅葉との再会に対して、恐れることなく自分の気持ちを伝えられる日が来ると信じた。